B's Poetry

『巨匠・山田洋次監督との光栄な忘れ難い一時…』
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今年は“世界のクロサワ”こと、黒澤 明監督の生誕100年にあたる年だそうだ。

実は、リングの当初の出産予定日だった10/23、成城大学のオープン・カレッジの一環として開催された、俺とブルースボーイも心から尊敬してやまない偉大な映画監督、山田洋次監督の講演『映画監督が見た黒澤映画』に参加できる貴重な機会を得た。

当日は、1000人以上の入場希望者があった中、抽選で入れた俺を含む幸運な500人で会場は満席だった。

世田谷区在住50年以上で、現在も成城に住んでいるという、御年79歳の山田洋次監督が語る天才黒澤 明(や小津安二郎監督)の独特の映画の世界や人間としての魅力…、生前の交流のエピソードの数々はどれも実に興味深くて面白くて、貴重な一時を過ごすことができた。

「黒澤さんの後輩を見つめる優しい眼差し…、映画を語る時の、その情熱的な瞳の輝き…、一緒に過ごした幸せな時間が今でも忘れられない…」

既に60歳を過ぎていた山田監督に、いつも熱く「君達、若い人達が真剣に頑張ってもらわなくては困るんだ!」と大先輩に言われる度に、「身も心も若返る思いがして嬉しかった…」

「黒澤さんは恐い人と言われているが、本当は心底優しくて、その長身の外見以上に、器の大きな人だった。」

黒澤さんが撮影現場で時に怒鳴ってスタッフを震え上がらせた後にも、その事を悔いるように(山田監督に対して)「僕はなにも威張って怒鳴っているわけじゃないんだょ。あれほどやる気を表現する彼ら(黒澤組)が、なぜ僕の言っていることを理解できないのかが情けないんだ…」と。。

淡々とした口調で語られる山田監督の言葉には、色鮮やかな映像のよ〜な情景が伴い…、まるで、あたかもそこに黒澤監督がいるかのよ〜な感覚さえおぼえて、満員の聴衆は皆、俺同様にその世界に引き込まれていたに違いない。そこには終始、例えようのない魅力的で不思議な空気が漂っていた。。

それまでの日本の映画の常識を覆した黒澤監督の作品の特長を示す為に、黒澤監督自身がそれまでの“集大成”と言った『赤ひげ』や『用心棒』の冒頭の映像を紹介するにあたって、東宝に交渉したところ、当初「入場無料のイベントでの上映を認めるわけにはいかない」と言われたこと、、やっと許可されたのが「(たった)2分だけ!」との条件つきだったことに…「このよ〜な機会が、映画界にとっても単純にいかに良い宣伝になるか…プロの映画人でありながら、彼らは全くわかっていない。黒澤さんがいたら、快く全面的に了承してくれたと思います。」

「私は、会社のお偉方や関係者達が一同に会しての(映画の)完成試写会の堅苦しい雰囲気が大嫌いなんです。その中のたった1人でもい〜から、なぜ『おもしろかった』の一言も言ってくれないのか…、そのくせ映画がヒットすると途端にコロッと変身して『さすがは山田先生』とか歯の浮くよ〜なことを言ったりする…」(苦笑)

また、今でも海外では黒澤監督以上に評価の高い松竹の先輩、小津安二郎監督に関してはずっと長い間「あれのどこがい〜んだ!」と思っていたが、…ある日近所の黒澤監督宅を訪問すると、黒澤さんは2階の自室に「上がって来いよ」と声をかけて、山田監督が部屋に入ると小津監督の代表作『東京物語』のビデオを観ていて「これがい〜んだよ!」と言うとニコニコしながら画面に見入っていたという。そのことがずっと忘れられなくて…「恥ずかしながら、私が小津安二郎の本当の凄さに気がついたのは、つい最近になってからのことです。」と。。

昭和19年、戦時中に黒澤監督の『姿三四郎』の検閲(ケンエツ)にあたった憲兵から、劇中の“ラブシーン”について「不謹慎な表現につき、削除するよ〜に!」と厳重注意を受けた時のこと、憲兵から意見を求められた検閲委員のひとりだった小津安二郎監督は、その場で黒澤監督に対して「100点満点中の120点、素晴らしい作品です!」と、絶賛したという。。

山田監督は近年、映画を勉強する現代の若者達が、この偉大な監督達の作品を知らないことを嘆き、「スパイダーマンなんて慌てて観なくてい〜から、黒澤さんの『赤ひげ』や『用心棒』、小津安二郎監督の作品を観て勉強しなさい!」と、常日頃言っているそ〜だ。

あっと言う間に感じられた1時間半に及ぶ講演の後、15分の休憩をはさんで、やがて20分だけ質疑応答の時間が設けられることになった。




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*Special thanks for Mr.Yohji Yamada.




実はその日の朝、俺と家内はとんでもない名案(迷案!?)を思いついてしまっていた。

それは…、知る人ぞ知る“寅さん命”、ひょっとするとBB・KING以上に山田洋次監督を尊敬してやまないブルースボーイが、、産まれる前から第2子の女の子の名前を、ご存じ寅さんの妹『さくら』と名付けることを決めているくらいだし…、もしかしてもしかしたら、その子の記念すべき出産予定日に、山田監督からお祝いに“一筆”(いっぴつ)いただけないだろ〜か…、という大それた野望を抱いて、ご丁寧に成城の駅前の文房具屋で色紙を買って、油性のマジックまで用意して、会場の一角で密かに胸踊らせていたのだが、実際には当然、とてもとてもそんなことをお願いできるよ〜な雰囲気じゃない。。

「質問のある方は挙手願います!」
選ばれた人がマイクを渡され椅子に着席したまま質問をする。
「もし山田監督が成城を舞台に映画を撮るとしたらどんな映画をつくりますか?」
愚問だ…『おとうと』が成城で撮影されたことも知らんのかい!?
「さぁ…どんな作品がい〜と思いますか?」

そんな質問の数々にも、監督は優しく誠実に応対していたが、間もなく時間切れの時が近づいて、俺と家内も遂に腹をくくった。

「それでは次で最後の方にさせていただきます」
の声に、「ハイッ!」と思わず声を出して手を挙げた俺と、司会者の目が合って指を指された。
「はい、それではその男性(俺)の隣りの女性の方!」
えっ!? 家内にマイクが手渡されると、彼女は初めて席を立って喋りはじめた。

「今日はこのよ〜な素晴らしい機会を与えていただいて、本当にありがとうございました。」
そして、『おとうと』に感動して、劇場で恥ずかしいくらい涙したこと、30年以上もブルースを歌っている自分の亭主には、私が弟のよ〜に感じている“寅さん命”の弟子がいて、その若い妻も主人の愛弟子で、今日が出産予定日であること、そしてその赤ちゃんの名前を、既に「さくら」と決めていること等を淡々と語り、会場中を大いに温めると…「あつかましいお願いと承知のうえで、勇気を出して言いますが、その若い夫婦と産まれてくる“さくら”の為に、先生から一筆いただけないでしょうか!?」と、見事に言ってのけた。。wow,

しばし山田監督との心温まるやり取りがあり「では後程、別室で…」とのお返事に、家内は満員の観客から一斉にその日一番の盛大な拍手をいただいて会は幕を閉じた。

会場を立ち去る老紳士や年配の方々が「良かったね!」と声をかけてくれたり、スタッフや担当の教授が「山田先生もとても喜んでおられますょ」と言ってもらえたのも、すご〜く嬉しかった。

やがてワクワクしながら奥の通路を通って、控え室に案内されると、山田監督は優しい笑顔で出迎えて下さった。。

「女の子で良かったですね…男の子でも“寅”じゃかわいそうだしね…」(笑)
巨匠は、瞬時に全てを見通して、俺達の真っ直ぐな想いを受け入れてくれた。。

『命名 さくら 山田洋次 』

“奇跡の色紙”は幸運の証しだ。
そして、「心から強く願わないことは叶わない…」ってことを、再び思い出させて心に刻む、一連の幸せな出来事を象徴する存在だ。。なんて言うと、ちょっとおおげさかな!?(笑)

握手したやわらかい手の温もり…、巨匠・山田洋次監督は、思ってた通り偉大な人物で、とっても優しい人だった。。。

成城での光栄な一時…、その幸せな日から4日目の晴天の朝「さくら」が遂に産まれた。

姓は中野、名はさくら、人呼んで ベッピンのさくらと申します♪
以後 末永くよろしくお願いいたします♪




2010年10月31日
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