あれはまだ俺が中学生になったばかりの頃で ただの生意気なク◯ガキだったある日…
幼稚園の頃からの幼馴染みだったが、別々の中学に進学して…、当時既にいっちょまえの不良へと最速の進化を遂げた悪友の家に、買ってもらったばかりの、グレコ製で、サンバーストのエレキギター(レスポール・モデル=420-EG)を抱えて、久しぶりに遊びに行くと、なんと、、
奴の部屋には、パールのドラム・セットとベース、ベースとギターのためのアンプやヤマハの6chのミキサーとPAシステムが鎮座していて、2本のムーブ式のマイク・スタンドには、ピッカピカのマイクが収まり光輝いていて…、俺はマジでぶっ飛んだ!
奴の家には当時の日本のロックのLPが沢山あって、フラワー・トラベリング・バンドや外道や村八分、頭脳警察やフライド・エッグ、サディスティク・ミカ・バンドやキャロルなんかを聴きあさった後に、そいつが自慢気に引っ張りだしてきた上田正樹とサウス・トゥ・サウス、そして初めて聴いたウエスト・ロード・ブルース・バンドに、何故か訳も分からず引き込まれて、魅了されたことを思い出す。。
その後、念願のソロデビューアルバムのレコーディングにも参加してもらい、やがては一緒に六本木スワンプ・バンドを結成した、我が音楽人生の、永遠のギター番長=山岸潤史さんが、この度めでたく(6/6)還暦を迎えた。
今にして思うと、上京して潤々と初めて会った時、
彼はまだ、今のモックンと同い年だったわけだ…。
当時、既に、スペシャルな“ギタリスト・山岸潤史”の名は、日本中に知れ渡っていた。
やがて彼はそれまでの日本での成功やキャリアの全てを捨てて、単身ニューオーリンズに渡り、
今や世界で最も有名な日本人ギタリストであり、かの地ニューオーリンズで"June Yamagishi"の名を知らぬ者はいない。。
G's bar@赤坂での松川純一郎、和佐田達彦&ジミ橋詰とのセッションの興奮も覚め遣らぬまま、
翌日は青山CAYでの「有山岸」へ…、超ベテランの有山じゅんじさんと、潤々の調度半分の年齢の若いデパペペや、植村花菜たちとの共演を特等席で見つめながら、
俺もまだ初々しかった頃の気持ちが蘇り、何度かグッとくるものを感じていた。
その2日後、ブルースボーイとのデュオの会場となった渋谷の「もりげん」は、桑名正博さんが亡くなる1年前の夏、帰国中の山岸さんも一緒に朝までセッションしたテラプレーンの向かいだった。
ライブが始まると間もなく、前日は名古屋での公演を終えたばかりの山岸さんがひとりでひょっこりやって来た。
その途端にブルースボーイは舞い上がり、突然プレイは崩壊したが…(爆)
その後、サックスプレイヤーのNaohが楽器持参で遊びにくると、間もなくチャカもやって来た。あ、アートも来た。
やがて俺と山岸さんも、ごく自然に、久しぶりの共演を果たし、Naohも座席に座ったままサックスを吹きはじめる…。
最後はチャカとふたりでWhat a wonderful worldを歌った。。
しつこいよ〜だが、崖っぷちの歌手も苦節31周年…
改めて、考えてみると、俺と山岸さんは…ま、2・3度絶交するほどの大喧嘩をしたことはあるものの、彼の人生の半分以上の付き合いになるわけで、、
今も長きに渡り、かつて、あの少年の頃に憧れた世界的なギタリストと、今でもお互いに元気で、一緒に笑い、相変わらず、時には朝まで酒を酌み交わし、こ〜して共演できることの幸せを噛み締めて、心底、それこそが実に貴重で有り難いことなんだと痛感させられている。。
油断大敵!
老若男女、初心 忘れるべからず!
人はみんな 日々試されているのかもしれない…。
みんなに感謝。
まずは還暦まで、歌い続けられるよ〜な歌手でいたいと、心底思う俺であります。
2013年06月10日